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グイノ神父の説教


C 年

復活節の主日から

キリストの聖体まで


復活祭の主日
復活節第2主日
復活節第3主日
復活節第4主日
復活節第5主日
復活節第6主日
主の昇天の主日
聖霊降臨の主日
三位一体の主日
キリストの聖体の主日


        復活の主日 C年   2019421日    グイノ・ジェラール神父

               使徒10,3437-43   コロサイ3,1-4   ヨハネ20,1-9

 キリストの墓が空であることを最初に見た人はマグダラのマリアで、その次に見たのはペトロとヨハネでした。 しかし彼ら三人はイエスを見たのではなく、墓の中にイエスが残した亜麻布しか見ませんでした。 それを見てマグダラのマリアは泣き、ペトロは困惑しました。しかしヨハネはそれを見て信じました。 確かにヨハネはイエスが愛した弟子でした。 しかし同様に、マグダラのマリアやペトロや他の弟子たちも同じようにイエスは愛していました。マグダラのマリアとペトロには何も見えなかったのに、どうしてヨハネは何か信じるに値するものを見ることができたのでしょうか。 これについて、後で説明していきます。

 朝早くまだ暗いうちに、墓に辿り着いたマグダラのマリアは「わたしの愛にとどまりなさい。」(参照:ヨハネ15,9)というイエスが与えた掟を忠実に行ないました。 忠実に終わりまでイエスに従った彼女はキリストの愛で満たされた正しい態度でした。 なぜなら、イエスの復活は悪と死に対する愛の勝利を宣言するからです。 そういう訳で、マグダラのマリアは世界を贖う愛の証人です。

 二番目にイエスの墓に辿り着いた人はヨハネでした。 彼は若いので勢いよく墓に向かって速く走りました。 確かに空の墓の中には何も見えませんでしたが、自分の心の中にイエスの言葉が生き生きと生き返っていました。 ヨハネは目の前に何も見なくても、イエスが言われたように復活したことをすぐ理解しました。 ヨハネの信仰は具体的な証拠ではなく、ただ神のみ言葉に信頼をおいた信仰に基づいています。 他の誰よりも先に信じたので、ヨハネは信仰の証人となりました。

 ペトロは息を切らせながら、ようやく墓に辿り着きました。 「あなたのためなら命を捨てます」(参照:ヨハネ13,37)と言ったペトロは強い意志をもって誓いながら、イエスの受難の時、三回キリストとの関係を否定しました。 しかし、ペトロはその罪にも拘わらず、一度も神の慈しみについて疑問を持ちませんでした。 ペトロの心の中で希望は生き生きと燃え立っていました。 確かにペトロは空の墓の前で困惑しました。 しかし「希望のないところに希望を置くこと」は大切だということをよく知っていました。 何も分からずとも何か良いことが起こると信じ続けたペトロは希望の証人です。

 このようにして、マグダラのマリア、ペトロ、ヨハネはイエスの空の墓を通して、何も見なくても、何も理解できなくても、ただ神のみ言葉を信じる信仰に私たちを導き誘います。私たちはイエスが復活したことを信じ、宣言し、喜びのうちに祝っているからこそ、マグダラのマリア、ペトロ、ヨハネと一致しましょう。 そして私たちの愛、信仰、希望を強く現しましょう。 それはすべての人が今もとこしえに、私たちと共に悪と罪と死に対するキリストの勝利を深く味わいますように。 アーメン。



       復活節第2主日 C年   2019年4月28日   グイノ・ジェラール神父

               使徒 5,12-16   黙示録 1,9-19    ヨハネ 20,19-31

  今日、私たちは神のいつくしみを祝っています。イエスの弟子たちは恐怖に襲われ、同じ所に集まっていました。そうすることで互いに勇気づけられると思っていたからです。自分たちの身の安全のため、イエスの敵たちから隠れるために、窓もドアもしっかり鍵をかけていました。しかしイエスは彼らの真ん中に立って、ご自分の平和を与え、弟子たちを力づけました。私たちは神のいつくしみと救いの愛を受けるために招かれているので、それを防いだり、止めたりするものは、今はもう全くありません。なぜならキリストの復活はすべてに打ち勝ったからです。

  イエスは、私たちを慰め、力づけ、勇気を与える優しい友です。人々の心にご自分の愛と慈しみを注ぐために、イエスは人間のつくる壁や固く閉めたドアを破壊します。復活されたイエスは、世界がどうしても必要とする真の解放者、救い主です。また、イエスは平和の働き手として私たちを人々のところに遣わします。それは人が自分の閉じこもっている場所から、自由に恐れずに出ることができるためです。というのは、人は日常生活で起こる出来事の中に簡単に自分を閉じ込める傾きがあるからです。

  「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とイエスは私たち一人ひとりに言っています。父の名によって、今、ここで、私たちの間におられるイエスは、神の愛と慈しみで私たちを包もうとします。ですから、無限の愛の証人として、出会うすべての人に神のいつくしみをもたらしましょう。

 「聖霊を受けなさい」とイエスは断言します。キリストの体をいただくたびに、私たちは聖霊の賜物をもいただきます。イエスが完全にご自分を私たちに委ねるからこそ、彼を永遠の糧としていただくなら、その度毎にイエスは私たちの心の内にご自分の愛の炎をおくのです。この炎こそ聖霊の賜物です。聖体拝領をする人は聖霊を受け、そして、父なる神の親しい交わりに与っているのです。聖体拝領によって、三位一体の神が私たちの内に住まわれることになることを忘れないようにしましょう。

 「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とイエスは教えています。キリストに結ばれた人は、その慈しみと愛の力を受けることになります。今日の第一朗読がそれを教えています。「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」と。キリストの復活は私たちに神のいつくしみの門を大きく開きました。神が憐れみ深いように、私たちも憐れみ深い人とならなければなりません(参照:ルカ 6,36)

 「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」とイエスは断言します。平和のうちに私たちを父のもとに連れていくために、死に打ち勝ったイエスは、私たちの心を愛で満たし、また人々を赦す決意と力を強めます。ミサに与かるたびに、私たちはこの神秘的な平和をいただきます。そしてそれを沢山の人と分ち合うようにと召されています。神の平和を与えることこそ、慈しみの一つの業です。

 聖トマスに倣って、復活されたイエスと直接に出会うことを恐れてはなりません。神に示す揺るぎない信頼によって、また慈しみの様々の業によって、私たちの信仰を証しましょう。慈しみ深い母マリアと共に「キリストが生きておられる」ことや「まことに全人類を救われた」ことを歓びの内に、そして勇気をもって宣べ伝えましょう。明るい信仰をもって「イエスは私たちの主、私たちの神である」ことを宣言しましょう。アーメン。



        復活節第3主日  C年  201955日   グイノ・ジェラール神父

             使徒 5,27-3240-41    黙示録 5,11-14   ヨハネ 21,1-19

 キリストの弟子たちは、自分たちの普段の仕事である漁師の生活に戻りました。まるでイエスが復活しなかったかのように。夜通し漁に出かけ、朝になり岸に戻りましたが、魚は何も獲れませんでした。しかし、岸に立っていた知らない男性がもう一度網を打つように弟子たちを促しました。彼の言葉に従って網を打ってみると、獲れた魚があまりに多くて網を引き上げることができませんでした。この不思議な漁が彼らの目を開き、彼らの心を燃やします。この事の意味が直ぐに解かったヨハネが「主だ」と叫びました。それを聞いたペトロが、他の弟子たちよりも先に主の直ぐ傍に行こうと、すべてを捨てて湖に飛び込みました。魚の網を引いて岸に戻ってきた他の弟子たちも一緒に、イエスが準備した食事を食べました。この朝の食事の出来事を通して、目に見えていても、見えていなくてもイエスがご自分の弟子たちの世話をし続けていることを彼らは良く分かりました。

 イエスは謙遜に弟子たちの世話をします。しかし、復活されたイエスは栄光と権威のある神です。確かに、神であるイエスは謙遜に弟子たちと日常生活を分ち合いました。それは受難を受ける前と同じような生き方です。今、この瞬間もイエスは私たちの直ぐ傍にいて、謙遜にご自分の御体と御血を私たちの糧として与えようと私たちを誘います。世の終りまでイエスは謙遜に私たちと共に留まります。ミサ祭儀以外に、復活されたイエスと出会う場所は、他でもなく私たちの日常生活の中です。

 勿論、聖体拝領の秘跡はイエスとの直接の出会いを実現します。なぜなら、キリストのみ言葉と御体で養われた私たちはキリストの内に留まり、そしてキリストも私たちの内に留まるからです。つまりここ洲本教会においても、イエスは具体的に私たちの日常生活を助け導きます。目指したことを実現するためにどこへ自分の網を打つべきかをイエスは私たちに教えたいのです。しかし、同時にキリストの命が私たちの命となるように、私たちは祈らなければなりません。それゆえに赦しの秘跡が私たちに愛の完成への道を開くのです。

 キリストとの関係を3回否定したペトロは、すべての弟子たちを支える岩となるためにキリストの愛の内に赦され、強められました。その結果、最低のレベルに落ちたペトロは、信頼と責任の最高のレベルに立ち上がることができました。イエスは一度もペトロの臆病さを非難しませんでした。ただ、3回言葉に出して愛するように彼に願いました。ペトロは他の誰よりも、もっともっと多く愛するように要求されています。「ヨハネの子シモン、私を愛していますか」と。

  この質問をイエスは私たち一人ひとりにも尋ねています。私たちの弱さや臆病さが決して愛することの妨げとなってはいけません。むしろ、私たちに示されているキリストの愛を信じて、イエスから離れることのないようにイエスの救いの手をしっかり掴みましょう。

  私たちの罪と悪い傾きにもかかわらず、イエスは永遠の昔から私たちを愛しているのです。ですから、彼は謙遜に「あなたはわたしを愛していますか」、「十分に愛していますか」、「もっともっとわたしを愛したいのですか」と、絶え間なく尋ねています。「もしわたしを愛するなら、あなたの不忠実とあやまちを忘れ、私の直ぐ傍に走り寄って、そして私に従いなさい」とイエスは強く私たちを誘います。アーメン。



          復活節第4主日 C年  2019512日   グイノ・ジェラール神父

              使徒 13,1443-52  黙示録 7,914-17  ヨハネ 10,27-30

  よい牧者であるイエスの声を聞くなら、私たちはこのよい牧者の永遠の命に与ります。 同時に私たちは父なる神の御手の中に安全に置かれ、そこから誰も私たちを奪うことができません。しかし、私たちはこのよい知らせを十分に信じているでしょうか。

  父なる神の御手はすべてをお創りになりました。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(参照:詩篇19,2)と詩篇作者は伝えます。神の御手は星を空に流し、山を高く上げ、川の流れる谷を深くします。またエデンの園に木を植え、そこに土で人間を形作りました。「陶器職人がその手にある粘土を、思うままに形づくるように、すべての人間は造り主の御手の内にある」(参照:シラ書33,13)と知恵のあるシラは教えています。そして神は「すべて命あるものに向って御手を開き、望みを満足させてくださいます」(参照:詩篇145,16)。

 神の慈しみ深い御手はこの世を救います。このように「力ある御手と伸ばされた御腕をもって」(参照:申命記7,19)神はエジプトのファラオの支配からご自分の民を救いました。ご自分の御手によって、神はイスラエルの民を愛の内に教え導きます。丁度、両親が自分の子供に対してするように。「彼らの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを彼らはわからなかった」(参照:ホセア11,3)と神は教えています。更に預言者イザヤの口を借りて、神はご自分の手を見せながら、私たち一人ひとりに永遠の愛を告白します。「見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつけた」(参照:イザヤ49,16)と。

 ですから、神の御手に留まることは神の愛のうちに安全に憩うことです。神の御手の中で日常生活のすべての出来事を生きているということを知って、私たちは深い平和を味わいます。イエス自身も死の瞬間まですべてを父なる神の御手に委ねました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(参照:ルカ3,46)。確かに、誰も私たちを神の手から奪い取ることができません。しかし、万が一、自分のせいで、または様々の理由で私たちが神の慈しみ深い手から離れても、いつでも神の下に戻ることができます。 とにかく、神ご自身が急いで「わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいます」(参照:コロサイ1,13)。

  パウロとバルナバはピシディア州のアンティオキアでの宣教の大失敗を辛く感じました。しかし神の御手によって彼らに委ねられた使命を続ける方向が示されました。失敗を通して良い牧者である神は、必ず救いの道、自由と希望の道を大きく開きます。困難や失敗は 神がいつも私たちに先立って導く「信仰の道」です。従って、死は終りではなく、神のそばに導く永遠の門です。

 人生の思いがけない出来事を通して、つまりヨハネの黙示録が名づけた「大きな苦難を通ってきた者として、私たちは小羊の血できよめられ、あがなわれた国民、種族、民族の数え切れない大群衆にならなければなりません」(参照:黙示録7,9)。自分自身を神の御手に安全に置いている人々の信仰は正にそれです。

  聖パウロが証ししているように、迫害、病気、試練、反抗などは、「神を愛する者たちには、万事が益となります」(参照:ローマ8,28)。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。…だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(参照:ローマ8,31-39)と、聖パウロは強く宣言します。

  ですから、私たちの信仰と揺るぎない希望を宣言しながら、神に感謝しましょう。そして謙遜に神の御手の中に身を寄せたまま、キリストと共に自分のすべてを委ねましょう。アーメン。



      復活節第5主日  C年  2019519日  グイノ・ジェラール神父

         使徒 14,21-27    黙示録 21,1-5   ヨハネ 13,31-35

  今日の福音のなかで「栄光」と言う言葉が 何回も繰り返されています。「カボド」のヘブライ語の言葉は「重さ」・「重要性」・「影響力のあるもの」を意味します。例えば富や権威は人に重要な者、価高い者というイメージを与えます。つまり富と権威が人を尊敬や有力な影響力を持つ者としてしまいます。一方、神に関係する栄光は、特に神の全能と聖性を明らかに表しています。

  イエスを引き渡すためにユダが夜の暗闇に出た時、イエスの栄光が明らかに示されたと聖ヨハネは説明します。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」と。イエスの受難が始まるやいなや、イエスは父なる神からの深い愛に包まれました。その父なる神の愛こそがイエスの受難と死と復活の大きな支えとなったのです。

  敵の手に引き渡され、弟子たちに見捨てられ、十字架につけられた、この受難の時こそ、イエスはご自分の心から湧き出る忍耐やいつくしみや赦しを通して、父なる神から受けた栄光を現されました。十字架上での苦しみによって、イエスは神の限りない愛を公に示しました。

   私たちにとって「神に栄光を与えること」とは、それは神の愛を受けること、そしてその愛が自分の内に成長するように努力することです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とイエスは私たち一人ひとりに要求します。言い換えれば、栄光と愛は親密に結ばれています。隣人愛を実現する人は神に栄光を与え、また神の栄光に与り、絶えず神に栄光を与える人は、イエスのように愛することを学び、愛の完成まで導かれています。

  キリストの愛と栄光は、完全に悪の力に打ち勝ちました。「わたしは新しい天と新しい地を見た」と聖ヨハネは黙示録の書を通して説明します。私たちのすぐそばに留まるために復活されたキリストは、愛と栄光の内に全てを新たにされたからです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(参照:マタイ28,20)とイエスは約束しました。

   同様に弟子たちが、どのようにしてキリストの愛と栄光の内に生きていたかを「使徒言行録」の書は教えています。至る所でパウロとバルナバは小さな共同体を作りながら異邦人の前でキリストへの信仰を証し、神の愛が行われる不思議な業を宣べ伝えます。聖パウロとバルナバは、決して福音宣教の実りを自分たちのものであると主張せず、むしろ神が一緒に働いていることを彼らは謙遜に認めます。神がキリストの愛と栄光の内に、そして聖霊の力の内にすべてを新たにすることを聖パウロとバルナバはよく知っているからです。

   神に栄光を与えるために、私たちが真心から互いに愛し合えば、その時こそミサ祭儀や教会の秘跡、そして人々の出会いが新しい味と意味を持つでしょう。その出会いはやがて私たちの信仰の証しとして大勢の人を主のもとに集めるでしょう。

  「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とイエスは約束しました。神の栄光のために隣人愛を尽くす人々の内に聖霊は力強く働きます。イエスが私たちを愛したように、互いに愛し合うことによ、私たちはまだ神の愛を知らない、数えきれない人に「信仰の門」を開く道具となるでしょう(参照:使徒 14,27)。 アーメン。



        復活節第6主日C年  2019526日   グイノ。ジェラ−ル神父

          使徒 15,1-222-29  黙示録 21,10-1422-23  ヨハネ 14,23-29

  イエスは受難の前夜、自分が死んでも生きていることをずっと繰り返し断言します。イエスは時間の流れを無視して未来のことをすでに実現された過去の出来事として語ります。受難を受けていないのに、「これはわたしの引き渡された身体...流された血です」と。つまり「わたしは死んでも生きている」と(参照:黙示録1,18

  言い換えればイエスの現存は目に見えませんが、活動的なものです。そのためにイエスの愛に留まる人々は、かつてなかった方法で、キリストの存在の神秘性を深く味わうでしょう。なぜなら、イエスの活動的な現存は人の心を平和と聖霊で豊かに満たすからです。 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」とイエスは教えています。愛することはキリストの言葉に注意深く耳を傾けることです。

  聖体の恵みと同じように、イエスの言葉はキリストの現存の秘跡だと言えます。たとえイエスの肉体的な感性の存在を感じなくても、私たちは福音を通して優しく語るキリストの声を聞く喜びと平安を味わうことができます。毎日心に留められ、黙想されているイエスの言葉は、私たちの内にキリストの現存を実現します。このように行なう人に「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」とイエスは約束しました。イエスの言葉は実際に「イエスの愛の現存」です。そういう訳で私たちは何度もそれを聞いて、よく黙想するように召されています。イエスの言葉は私たちを「キリストの友」(ヨハネ15,15)や神が来られる「聖霊の神殿」(1コリント6,19)とするからです。ある意味で私たちが「神の栄光が照らしておる新しいエルサレムです」(参照:黙示録21,23

  これからはみ言葉が私たちの内に肉となる(参照:ヨハネ1,14)、即ち、神の神秘を聖霊が内面的に理解させることをイエスは説明します。この神秘を教会は何世紀にも亘って、ずっと教えています。ですから、神のみ言葉と全人類のニーズに耳を傾け続けるように、私たちは絶えず聖霊の助けを求める必要性があります。キリスト者になった異邦人の問題を解決するためエルサレムに集まった弟子たちは「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄に決めました」(参照:使徒15,28)と宣言しました。

  キリストの言葉と聖霊の助けを親密に生きることによって、私たちは必ず主が約束された平和と喜びを味わうことができます。特に、この教会で毎週日曜日に神が豊かに下さるこの平和と喜びを深く味わうように私たち一人ひとり招かれています。

  私たち皆は平和を必要としています。しかし自分の中に密かに育てている悩みや恨みや苦みや後悔のせいで平和が自分の内に長く残りません。ところが、今日、聞いたすべての朗読は私たちの前に平和の道を開いているのです。先ず、第一にアンティオキアとエルサレムの最初のキリスト者が行なったように、私たちも兄弟的な愛をもって、互いに耳を傾けあい、よく相談することが必要です。そして、聖ヨハネの福音や黙示録の書が教えているように、祈ること、神の言葉を黙想することが肝心です。祈りによって、時間を掛けて主を仰ぎ見る人は段々主に似た者になります。 たとえば、長く祈るカルメル会のシスターたちの顔は、知らないうちにイエスの光と平安を放っています。彼女たちは神と共に自分たちの問題を解決するので、シスターたちの存在がカルメル会を訪れる人々に平安を与えることができるのです。

 「わたしを愛しているなら、あなたがたはわたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ」(参照:14,28)とイエスは断言します。ですからもっと愛する様に、イエスが私たちの心にご自分の愛を注ぐように願いましょう。またイエスの言葉と聖霊が私たちの歩むべき道を照らし、平和で満たすように諦めずに祈りましょう。言い換えれば、日ごとにイエスの示す愛とみ言葉に対する忠実さによって、私たち自身が「生きる福音」となりましょう。アーメン。



      主の昇天の主日  C年  201962日   グイノ・ジェラール神父

            使徒1,1-11  ヘブライ 9,24-2810,19-23  ルカ 24,46-53

  主の昇天の主日は、キリスト教の信仰の柱である「イエスの受肉」と「復活」を含んでいます。肉になった神のみ言葉であるイエスは、父なる神の所に戻ります。同時に三位一体の中心に私たち肉としての人間を導き入れます。昇天の出来事を通して、復活したイエスは贖われた全人類を神へと導き、三位一体の神の親しさに与からせます。今日、私たちはこの偉大な神秘の事実を祝っています。

  イエスが上げられた「天」は、神ご自身です。罪と死に打ち勝って、復活されたイエスは神をご自分の父として認める人々と共に昇天しました。主の昇天は確かに全人類に体の復活を得させ、同時に三位一体の神の中心に身を置くのです。聖イレネオ、聖アウグスティヌス、また大勢の教会の教父たちが教えている通り「イエスによって、神が人間になったのは、私たちが神となるためです」。事実、神が私たちの肉を取ったのは、私たちの肉を復活されたキリストの栄光の肉と一致させるためでした。

 「しかし、実を言うと、わたしが去っていくのは、あなた方のためになる」(ヨハネ16,7)とイエスは言いました。不思議なことですが、イエスはご自分の不在によっても、また目に見えない現存によっても、私たちにご自分を啓示します。と言うのは神であるイエスはご自分のすべてで私たちの人生を内面的にも外面的にも満たし、神的な幅に広げます。なぜなら、イエスは私たちの魂の奥底に留まって神の神聖の奥底に導き入れようとするからです。世の終りまで一緒にいるイエスは、私たちが自分自身を越えるように、ご自身の終りのない命、つまり無限の存在に私たちを絶えず引き寄せます。私たちがイエスと一緒に歩むか歩まないか、という自由を尊重しながら、力強い愛をもって私たちに忠実に伴います。

 神の栄光に戻ったキリストを祝いながら、私たちは天使と聖人の喜びに与ります。神の右の座に座っているイエスは、宇宙万物の王と定められました。今から後キリストの使命とは「天にあるものも地にあるものもご自分のもとに一つにまとめる」(参照:エフェソ1,10)ことです。私たちが「神の栄光をたたえるために」イエスは私たちに聖霊の賜物を与えてくださいました。

 私たちの喜びは大きいです。なぜなら、私たちは良く知っていますから。「天地創造の前に、神はキリストにおいてわたしたちを選び、ご自分の子にしよと天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。それは私たちが輝かしい恵みをたたえるためです」(参照:エフェソ1,3-5)。来週、祝う聖霊降臨の主日は私たちの信仰にあるこの不思議な神秘を啓示しています。

  感謝と喜びの心で、私たちの祝い日である「主の昇天の(主日とる?)」を祝いましょう。神が私たちと一致させた「栄光の神秘」を少しでも悟りながら「わたしたちは、もはや未熟な者ではなくむしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(参照:エフェソ4,14-16)。ですから、キリストの愛によって、聖霊の力の内に、神の子として私たちが造りあげられることを強く願いましょう。 アーメン。
                   グイノ・ジェラール



       聖霊降臨の主日   C年  201969日  グイノ・ジェラール神父

            使徒2,1-11    ローマ 8,8-17    ヨハネ 14,15-1623-26

  神の愛の火は全世界を燃え上がらせるために、今日、私たちに聖霊が与えられます。そういう訳で、最初に聖霊は火の舌のように現れました。そして、激しい風の音は聖霊の現れを示します。なぜならそれは、聖霊が神ご自身の命と再生の強い息吹ですから。すべてを新たにし、またそれをキリストの内に集めるために、聖霊はいつも力を込めて来られます。

  2000年前にエルサレムの都に降った聖霊の火は、町から町へ、国から国へ移動しながら、散らされている神の子たちを救い主イエスの傍に一つに集めようとしました(参照:ヨハネ11,52)。地の果てまで使徒たちを遣わす聖霊降臨の出来事は、もはや境目のない大きな集まりの出発でした。聖霊に倣って、教会の使命もキリストの名によって、神の限りのない愛の内にすべての人を集める使命です。

  力強い聖霊は、鍵をかけたドアと窓を大きく開きます。そして勇気と大胆さを与えながら、信仰を証しするために人を遣わします。福音を聞く前に、私たちが歌った聖霊の続唱が教えているように、聖霊は人を目覚めさせ、人を揺さ振り、人を清めます。聖霊は交わりと喜び、柔和と強いパワー、涼しさと慰めです。 聖霊は最終的な救いと永遠の喜びを与えます。

  聖霊降臨の日に、世界の人々はみな「神の民」となるように召されています。これこそ聖霊の役割です。聖霊は人が回心し、ご自分の豊かな実を結ぶためにその人の恐れと不安に救いを与えます。もし聖霊の息吹が私たちを満たすことを承諾するなら、もはや妬み、嫉妬、偽り、高慢を運んでいる苦しみや憂いを避けることができるでしょう。その代わりに、私たちを柔和と信頼で満たし、分ち合いと真理に導き、平和を築き、謙遜を表す神の言葉を自然に語るでしょう。

  復活されたイエスによって与えられている聖霊の火は、私たちを新たにし、清め、聖とします。しかし、自分の利益と幸せのためだけではなく、大勢の人の利益と幸せのために、聖霊の賜物を私たちは受けています。聖霊の賜物は、私たちを通して人々に及びます。「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の利益となるためです」(1コリント12,7)と、聖パウロは私たちに思い起こさせます。

 またカエサリアの聖バジリオも次のように教えています。「聖霊の助けによって私たちが実現した業によってしか、私たちは聖霊の神秘性を理解できません」と。弱い人の世話をすることや苦しんでいる人の叫びに耳を傾けることや病者を見舞うこと、人々の欠点や短所を辛抱強く耐えることなどの業は、聖霊の助けがあれば、誰でも実現しやすい業です。聖霊はいつもいつくしみと一致、喜びと分かち合いの溢れる泉です。

 「聖霊を受けなさい」とイエスは、私たち一人ひとりに言われます。聖霊が私たちの恐れ、偏見、無関心や高慢をご自分の火で焼き尽くすように、喜びと信仰を込めて聖霊の息吹を十分受けましょう。謙遜に聖霊の力強い息吹を受けるなら、疑いもなく神は私たちとの一致を実現させ、福音宣教のために私たちの心を燃える愛で満たすでしょう。アーメン。



       三位一体の主日  C年  2019616日  グイノ・ジェラール神父

              箴言 8,22-31  ローマ 5,1-5  ヨハネ16,12-15

  私たちが使う言葉を通して、神について話すことはとても難しいことです。なぜなら 神を見ることや聞くこと、触れることなど全く出来ないからです。誰も、始めも終わりもない神の神秘を解説する事は出来ません。いくら、ずっと長く続く物事を想像しても、また長く続く状態を体験しても、私たちは全く始めがなく、それでいてずっと存在しているものを考えることは到底無理です。ところが、神は永遠の存在であり、アルファでありオメガとして「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(参照:黙示録1,8)です。

  昔の預言者たちをはじめ、今日の教会でも神について語る時に、意味の足りない言葉を使うことに驚いてはいけません。預言者たちや教会は色々なイメージを使って、言い表せない神の愛や慈しみ、赦しや神の聖性などを説明しようとします。しかしながら、三位一体の神秘を説明する言葉は見つからないので、神を理解させるためには役に立ちません。幸いなことに、イエスご自身が父なる神と聖霊について少し話しました。イエスは父なる神と親密なので神を知っています。そして、父とイエスは一つになっています(参照:ヨハネ10,30)。父なる神とイエスの間に、彼らを一致させる「愛」と呼ばれる聖霊がおられます。

  「全世界に行って、すべての人に父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」(参照:マタイ28,19)とイエスは弟子たちに願いました。教会の典礼は、私たちが三位一体の神秘を理解し、この神秘に生きることができるために大きな助けとなります。なぜなら、ミサ祭儀は最初から最後まで三位一体の神と強く結ばれて、その働きに私たちを与からせます。また、私たちの個人的な祈りも、父と子と聖霊に親しく出会う事を可能にしているからです。

  実を言えば、神の神秘を深く味わうために、私たちは愛する子として神と親しい関係を結ぶように努力しなければなりません。ご存知のように、親しい人と共に結んだ絆は秘め事と神秘的な広さをもっています。人との親密な出会いが一つの神秘であれば、まして、神との親密さはもっと深く豊かな神秘をもたらすでしょう。

  「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(参照 :マタイ11,27)と断言したイエスが、それ以上のことを言えないと解るでしょう。イエスの内に、イエスを通してしか私たちは、神がどのような方であるかを知ることは出来ないのですから。特に、聖霊を私たちに遣わすことによって、イエスは神の言い表せない神秘を啓示しようとします。聖パウロが教えている通り「聖霊は一切のことを、神の深みさえも究めます」(参照:1コリント2,10)。

 私たちは神の似姿に造られたので、愛することによって人は、神も自分自身も知ることになります。私たちが自分たちに似ている神を知ることは、もっとも肝心な務めです。神は愛、そのものです。私たちが真実な愛を示すとき、神の命に親密に結ばれています。ですから、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛する事に努めましょう。そして自分のように隣人を愛しましょう。この隣人こそ私たちにとって、神ご自身のみ顔ですから。ア−メン。



        キリストの聖体の主日 C年  2019623日  グイノ・ジェラール神父

              創世記14,18-20   1コリント11,23-26   ルカ 9,11-17

  ルカの福音に寄れば、イエスは群集に向かって色々と教え、彼らを養いました。「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」と。命のパンであるイエスは、神の国を紹介し、人をいやし、また豊かに養います。現在では、これは私たちがミサ祭儀に与るとき「み言葉の典礼」と「聖体拝領」となっています。今も、昔と同じようにイエスのみ言葉と命のパンは、私たちが「神の国に入れるように、癒されるように、豊かに養われるように」私たちに与えられている神の熱心な誘いです。ミサ祭儀を通して神のみ言葉に注意深く耳を傾ける人は、必ず癒され、満たされるでしょう。

  教会の教父である聖イエロニモ(4世紀)は聖体の小さなくずを落とさないように気を配るなら、それ以上に神の教えの一つ一つの言葉を失わないように心を配ることが肝心だと教えています。神のみ言葉もご聖体を通していただくキリストの体も、両方とも命のパンであり、復活されたイエスの現存をもたらすのです。果たして、私たちは神のみ言葉に対する飢えと渇きを育てているでしょうか。癒されるために神のみ言葉をゆっくり黙想して、深く味わっているでしょうか。

  「キリスト者」といわれる人は、自分を教え、養い、癒し、私たちを救うキリストに益々一致することを望む人です。キリスト者は、神への飢えと渇きを育てる人です。キリスト者は、どうしてもキリストの命を自分の命としたいと強く望む人です。そいう訳でイエスは絶えずご自分の命の言葉と命のパンである、ご自分の御体と御血によって私たちを養います。言い換えれば、イエスはご自身の命に永遠に生きるように私たちを誘います。

  イエスを囲む群衆の前で、また晩餐のとき、更にはエマオへの途中で旅人を泊めてくれた家の中で、イエスは同じ所作をしました。イエスはパンを取り祝福し、割って弟子たちに与えました。ミサ祭儀の時、司祭はイエスの所作を繰り返します。世界中でパンとぶどう酒が、復活されたキリストの御体と御血になる時、神の愛の充満がすべての人に与えられています。この事実について私たちは十分に考えているでしょうか。

  群集を養うために「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」と弟子たちは弁明しました。群集も自分たちも養うためには、これだけでは足りないからです。いつか、私たちも日常生活のある時点で、自分の貧困と不足しているものを発見するでしょう。私たちが持っているものだけでは、世界に広がっている飢えの問題を解決することが出来ません。しかし、私たちがイエスに差し出す「ほんの少しのもの」でイエスは世界の飢えを癒すことが簡単にできます。「すべての人が食べて満腹するために、またたくさんのものが残るように」私たちはイエスに揺るぎない信頼を示さなければなりません。この信頼の名こそ信仰です。従って、神が全ての人に日ごとの糧を与えるように、イエスが教えた祈りをわたしたちが信仰をもって祈ることは大切です。なぜなら、聖霊降臨の日から聖霊は地の面を新たにしたからです(参照:詩篇104,30)。従って、人間が祈る時、絶えず祈っているのは実は世界の中心で働く聖霊です。そいう訳で神の内に自分の信仰をおく人は、自分自身や他の人のためにも決して必要なものを欠かすことはありません。

 信仰を込めて、キリストの御体と御血を拝領するたびに、神は私たちを「無限の分ち合いの神秘」に連れていきます。全ての人が救われ・癒され・養われ・赦されるために、神の力はいつも私たちの弱さの内に働きます。ですから、全人類を助け、救うために自分に必要な物以外は、惜しみなくイエスに捧げましょう。神の恵みによって、最も小さなものが百倍の実を結び、大勢の人びとの役に立ち、多くの残り物を残すほどの物となることを私たちが知っているからです。キリストによって養われ、満たされている私たちは、今度は世界の人を養い満たして満腹させる恵みを神に願いましょう。アーメン。



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